[カテゴリー:問答の観点からの認識]
#推論規則MPの正当化とその事例との正当化の区別
「これがリンゴであるならば、これは果物である」という条件法を真だと考える者は、「これがリンゴである」を真であると考えるときには、「これは果物である」を真だと考えるでしょう。したがって、「これがリンゴであるならば、これは果物である」と「これはがリンゴである」を共に真だと考えるときには、「これは果物である」を真だと考えるでしょう。つまり<「これがリンゴであるならば、これは果物である」、「これはがリンゴである」┣「これは果物である」>という推論を妥当だと考えます。
以上を認めるとします。つまり、「これがリンゴであるならば、これは果物である」という条件法を真だと認める者は、<「これがリンゴであるならば、これは果物である」、「これがリンゴである」┣「これは果物である」>という推論を妥当だと認めることになります。
この推論の形式を一般化すれば、MPとなります。したがって、このような推論を数多く行えば、それらかの一般化によって、明示化されたMPを獲得できるかもしれません。それが獲得できたならば、この推論は、MPの一事例であることになります。
このように考えるとき、私たちは、第一段落のような推論からMPを(帰納ないし一般化によって)正当化しているのであって、MPを用いてこの推論を行ったのではありません。
では、冒頭の段落の推論はどのようにして成立したのでしょうか。それは「これがリンゴであるならば、これは果物である」という条件法を真だとみなすことに依拠していました。p→rと考えることから、p→r、p┣r と推論することになったのです。p→rを真だとみなすことは、暗黙的にp→r、p┣rという推論できるということを含んでいるのです。
これまで、推論はMPによって行われ、それはp→rのような条件文を使用するので、p→rの真理性を考えてきました。しかし、推論はMPによって正当化されるとは限らないことが、わかりました。推論規則MPの妥当性が正当化された後には、MPに依拠して推論をおこない、それを正当化することができるのですが、MPの正当化が行われる前に、MPに依拠しないで私たちは推論をしているのです。それがより原初的な推論です。
#仕切り直しへ
わたしたちは、93回から、問いに対する答えが正しいとはどういうことかを考えてきました。
問いに対する答えが正しいとは、問いが理論的な問いである場合には、答が真であることであり、問いが実践的な問いである場合には、答が適切であることだと考えます。認識は理論的な問いに答えることであるので、認識の正当化とは、理論的な問いに対する答えが真であることであり、問いに対する答えが真であるとはどういうことかを、考えてきました。その際、問いに対して知覚に依拠して答える場合と、推論によって答える場合にわけて、考察してきました。そして、推論は、MPに依拠して行われると考えてきましたが、原初的な推論はMPに依拠しないと思われることがわかりました。
さらに、実はこの原初的な推論においては、問いに対して知覚に依拠して答えることと、推論によって答えることの区別もまた曖昧になってきます。そこで理論的問いに対する答えが真であるとはどういうことかを、次回から、仕切り直して論じることにしたいと思います。